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清水幾太郎の外国語学習論を吟味してみたいと思う。Shimizu_Ikutaro

清水氏の外国語学習論には三つの柱がある。

最初の柱は「洋書を買うこと」である。清水氏は言う。

第一に洋書を買うことである。(中略)洋書といっても、日本で出版されたものはいけない。巻末に訳注がついているような本、対訳の本、そんな本はいけない。そういう教科書じみたものはキッパリと手を切らねばならぬ。どこにも日本文字が見当たらぬ、ロンドン、ニューヨーク、パリなどで出版された本当の洋書でなければいけない。そういう本をソッと買って来て、身辺に置くと、ある新しいムードが生まれてくる。私は、このムードが貴いと思う。万事はムードを作ってからである」(『本はどう読むか』講談社)

私は、この清水氏の主張に賛同する部分もあるが、賛同できない部分もある。

ちなみに清水氏は中学から(英語ではなく)ドイツ語を学んだ方であり、ドイツ語の翻訳書も多数出版されている。しかしその他の言語に関しては、本人の弁では英語や仏語は「辞書を引きながら読んだり訳したりはできる」そうだが、伊語、西語、露語などは「どれもものになっていない」らしい。その点を踏まえてお読みいただきたいと思う。

私も「洋書を買うこと」そのものには賛同している。清水氏がいうとおり、洋書を身辺に置くと新しいムードが出来上がることも実感している。たしかにイタリアから出されたイタリア語の本、ドイツから出されたドイツ語の本、スペインから出されたスペイン語の本を身近に置くと、それだけでそれまで経験したことがなかったムードができるのだ。

しかし、ムードを作ったからといって、それはそれだけのことである。ムード作りそのものが大切なのではない。それをわきまえなければならない。

実は私がまだ二十歳のころ、英検準1級レベルの実力しかないのに某大型書店の洋書コーナーで英文で書かれたカントの哲学書を見つけて買ったことがある。当時の私は哲学書すら読んだことがなかった。なのに2万円以上もする英語で書かれたカントの哲学書を買ったのだ。そしてその瞬間、「私はカント哲学を英語で読むんだ」と自分がものすごく偉くなかったかのような錯覚を起こした。私の自宅に遊びに来た友人からも「お~、凄い、英語でカントを読んでいるのか」と尊敬のまなざしを向けられるのではないかという浅はかな期待もあった。それこそが、まさに洋書が引き起こすムードである。

しかし、当然といえば当然だが、私は1ぺージ目でつまづいた。結局、数行読んだだけで終わり、その後ずっと本棚で眠り続けたのである。さらに、私の自宅に遊びに来る友人に尊敬されるのではないかという期待も裏切られた。そもそもそんなに沢山の友人がいるわけでもないし、私の自宅に来る数少ない友人にしても、本棚に置かれてあるカントの本に気付くわけはなかった。結局、2万円以上もはたいて買ったのに、数行読んだだけで終わったのだ。しかも、あとから気付いたが、カントの原著はドイツ語で書かれてあり、私が買った英語の本はドイツ語からの翻訳だったのだ。

私が二十歳のころにムード作りのために買ったアメリカやイギリスから出されている英語の本はカントの哲学書だけではない。何冊、いや、何十冊も買ったのだ。しかし英語の実力が伴っていなかったので、最後まで読み切った本はほとんどなかった。

そこで私が言いたいのは「洋書を買うこと」はたしかにムード作りには適しているが、かといって自分のレベルに合っていないものを買っても、ただ単にムードを作っただけで終わりかねないということだ。だから私は「graded readers(学習者用に易しくリライトされたもの)」を買うのをお勧めしたい(もちろん原書がスラスラ読めるという人であれば、原書を買えばいい)。

「graded readers」であっても、本国から出されている本であれば、それなりにムードができる。それは私自身が体験していることである。しかも、初心者向けのものから何段階かのレベルに分けられているので、自分のレベルに合ったものが選べる。これを利用しない手はないのだ。

次に私が清水氏の主張に賛同できない点を述べよう。

清水氏は「巻末に訳注がついているような本、対訳の本、そんな本はいけない。そういう教科書じみたものはキッパリと手を切らねばならぬ」と主張している。

しかし先述したとおり、一番大切なことはムードを作ることではない。大切なことは学習することによって自分のレベル(語学的レベル、または、教養のレベル)が上げられることである。であるから、自分のレベルが上げられるのであれば、対訳本もいいし、問題集でもいいし、単語集でもいいのだ。何も教養のレベルを上げることだけにこだわることはないのだ。

私は、英語以外に仏語、独語、西語、伊語、中国語を学んでいる。たしかに教養を身につけるという点だけでいえば、問題集や単語集などはあまり役立たないであろう。それらはあくまで語学力を上げることを主たる目的として作成されているからだ。教養を身につけようと思えば、それなりにしっかりした本を読むことが必要になろう。

しかし、だからといって清水氏の「巻末に訳注がついているような本、対訳の本、そんな本はいけない。そういう教科書じみたものはキッパリと手を切らねばならぬ」」という主張は受け入れがたい。

体感として言えることだが、仏検でいえば2級以上、伊検でいえば準2級以上を目指そうと思えば、「原書を読んで意味がわかる」というレベルを超えなければならない。フランス語では原書をいくら読んだとしても、ディクテの練習をしなければディクテができるようにはならないし、イタリア語の原書をいくら読んだとしてもイタリア語で作文が書けるようにはならないのである。そしてそのような人は「初心者」の域にとどまっている人と言わざるを得ない。そのような「初心者」が「初心者」の域を超えようと思えば、問題集もドリルも必要なのだ。原書だけで努力したところでディクテができるようになりはしないし、作文が書けるようにはならないのだ。嘘だと思うのなら、仏検2級のディクテの問題を一度やってみればわかる。

清水氏の第一の主張に対する私の意見をまとめよう。 

第一に、洋書を買うことは新しいムード作りに役立つ。だから「graded readers」などで自分にレベルに合った本を買うのはいい。ただし、ムード作りそのものが重要なことではないので、自分のレベルに合わない本を買っても、ムードを作るという点以外には役立たない可能性があることをわきまえよう

第二に、「原書を読んで意味がわかる」というだけでは「初心者」の域は超えられないので、中級レベル以上を狙うのであれば、問題集であれ単語集であれ、どんどん買って学習するのがいい