中学1年の英語の授業のときのことだ。
教科書に「hello」の訳として「今日は」と書かれてあったが、中学1年の私は「hello」の訳がなぜ「きょうは」になっているのか腑に落ちなかったので先生にこう質問したのだ。
「教科書には『hello』の訳として『きょうは』と書かれてあるんですけれど、『きょうは』って訳したら意味が通じなくなると思うんですけれど」
私がそう言い終わるか終わらないかというときに教室内で大爆笑が起こった。みんなゲラゲラ声をたてて笑い出したのだ。私はなぜがみんなが大爆笑しているのかまったく分からなかった。
すると先生も半笑いしながら、こう答えた。
「これは『きょうは』ではなくて『こんにちは』ですよ」
そう言われても私はまだ理解できなかった。というのも先生のいう「こんにちは」を挨拶のときに使う感嘆詞「こんにちは」ではなくて、副詞の「きょうは」の「きょう」を「こんにち」に変えただけだと思い続けていたからだ。
私はぽかんとしながらもう一度質問した。
「では、『hello』の訳が『こんにちは』だとして、どう訳せばいいんですか? そう訳したら意味が通じなくなると思うんですけれど」
するとさらに教室内で大爆笑が起こった。先生はあきれた顔をしながらこう答えた。
「『こんにちは』は『こんにちは』じゃないのよ。そう訳せばいいじゃないのよ。それ以外の訳し方なんてないです」
私は納得できなかった。
誤解がないように入っておくが、私はその先生が好きだったし、この件があったからといってその先生が嫌いになったわけでもない。また、教室内で大爆笑が起こったことを屈辱だと感じたわけでもなかった。嘲笑されたわけでもないからだ。だから、強烈な印象として今でも鮮明に覚えているが、嫌な記憶として残っているわけではない。
今思えば、「『こんにちは』は『こんにちは』じゃないのよ。そう訳せばいいじゃないのよ。それ以外の訳し方なんでないです」というのがその先生の説明力だったのだろう。50歳くらいの女性の先生だったが、中学1年の私がなぜそのような疑問をもったかという思考プロセスが理解できなかったのだろう。
今の私が同じ質問をされたらこう答えるだろう。
「君は『hello』の訳として書かれてある『今日は』を挨拶の『こんにちは』ではなくて、副詞の『きょうは』と解釈したようだね。たしかに挨拶の『今日は』はひらかなで『こんにちは』と書かれることが多いから『今日は』と書かれてあったら、副詞の『きょうは』だと誤解しやすいよね。編集者もここは『こんにちは』とひらかなで書けばよかったね。ただ、ここには『今日は』と漢字で書いてはあるけれど、副詞の『きょうは』ではなく、挨拶の『こんにちは』という意味だよ。だから『こんにちは』と訳しても十分意味は通じるだろう? もしどうしても『こんにちは』という言葉を使うのがイヤだったら、『やあ』とか『コンチワー』とか『ハロー』と訳すという方法もあるけれどね」
さまざまな言語を学べば、言葉による誤解がなぜ起こったかということを洞察する力が養われるかもしれないと思う今日このごろである。なにしろ、単一の言語でしか生活していない人には到底理解できないゴチャゴチャした文法や言い回しも理解しなければならなくなるからだ。例えばスペイン語の文法は英語の文法よりもはるかに複雑だ。マスターしようと思えば、相当の努力がいる。こういう訓練を積み重ねていけば、たとえば相手が理解できていない場合は、少なくともその理解できない理由を探ろうとするだろうなと思うのである。